Yasu

備忘録

Selfieについて

たしかに綺麗なクリスマスツリーだが、そこに自分を写す意味はあるのだろうか。

 

前提、人の一生は有限である。

このことを考えると、一瞬を切り抜きたいという欲求は分かる。自分の存在をどこかに残したいし、限られた脳みそのメモリーでは、全てを記録しきれない。

 

明日、学校に行き、会社に行き、誰も自分を認識しなかったとしたら、その人との過去はなかったことになるのだから、それは大きな虚無感を生むだろう。

 

さて、それならば、クリスマスツリーだけを撮ればいいのではないか。

しかし、クリスマスツリーは皆んながどこかで撮っているのだから、自分で取る必要は必ずしもない。

他人の写真をiPhoneに保存すれば、自分がそこに行ったという記憶は蘇るはずだ。

 

さすれば、人は"自分"が撮ったということに意味を感じるのではなかろうか。そのoriginally として、自分を写しこむという安易な手法が浸透しているように感じる。

成績不振とかまってちゃん

休み時間になると所在なさげに教室を出てウロウロする生徒がいる。

彼らは何を聞くでもなく何を話すでもなく、時々僕らに一瞥をくれたかと思うと、視線を外してまたぼんやりしている。

かまってあげる先生が「どうしたの?」などと問えば、彼らは嬉々として中身のない会話を展開する。

 

これは、僕がアルバイトをしている塾で度々目にする光景だ。塾講師のアルバイトとして集団・個別授業を受け持ちもう4年になる。

今年、受験生である中学三年生を受け持ち、ある"かまってちゃん"をよく見かけるようになったのが、この記事を書くきっかけだ。

 

塾は学校とは違い、勉強ができるか否かが価値判断の基準となる。つまり成績がモノを言う社会だ。学校とは違い芸術やスポーツの才能を重視しない社会である。そこでは、生徒の存在価値が成績や偏差値という一点に凝縮され、態度は悪くてもハイスコアを取る生徒が重宝され、真面目に勉強を重ねてもスコアの取れない生徒は戦力外として軽視され得る社会とも言える。

 

塾に通える生徒は"比較的"裕福であると言え、マズロー欲求段階説における3段回目までは概ね満たされていると言ってもいいだろう。問題は4段階目の承認欲求である。塾という限定された社会では人が人を賞賛するポイントは成績でしかない。その中で、成績不振の生徒たちは承認欲求が満たされることはない。

そこで、彼らは上記の行動に出るのである。授業中に問題が解けず、模試の成績も振るわない彼らは、休み時間に、ひたすらかまってオーラを出し自分の存在そのものを認識してもらおうとするのである。そうすることで自己を認めさせようと試みるのである。

 

 

こうした生徒に多い特徴は、成績が低いのはもちろん、思考力が低く、現在の自分を認めようとせず、理想の自分に現在の自分を重ねていることである。具体例を見ていこう。彼らは授業中のミスを認めない。わかったふりをするし、なぜそうしたミスを犯したのか自省しない。結果として、今やるべきことが見えず、なんの戦略もない勉強を続け(がむしゃらにワークを進める、無闇に英単語を覚える等)成績は不振を続ける。理想の自分と同化するから"簡単"な宿題は必要がないと軽視し、"簡単"な宿題すら解けなくなる。。。

 

 

 塾に現れるかまってちゃんはこの様な構造的欠陥を持っているのである。

 かまってちゃん化した生徒は最早現状を直視する力さえ持たず、無意味な勉強を繰り返す。。。